神楽坂便り「津久戸小学校創立100周年記念」
不定期にあらわれては、シーズの事務所のある神楽坂(かぐらざか)の四季折々をご紹介する「神楽坂便り」。前回は、7月の「神楽坂まつり 阿波踊り」をご紹介しましたので、約3ヶ月ぶりの神楽坂便りになります。
今回は10月16日に行われた「津久戸小学校創立100周年記念」です。
前回に引き続き、事務局の丁(てい)がレポートします。
折鶴が可愛い100周年を祝う立て看板(正門前)
津久戸小学校は、JR総武線飯田橋の駅からシーズに向かう坂の途中にあり、私は、毎朝この小学校の前を通り通勤しています。校舎には、今年4月頃から「祝開校100周年」の垂れ幕がかかり、それを見る度に、一世紀に渡る長い歴史を持つこの学校に、特別な思いを寄せていました。なぜなら、この小学校は、神楽坂で生まれ育った私の母が、今から約60年前に通った母校だからです。
縁あって神楽坂に通勤するようになった私は、めったにない機会なので、是非この記念式典に参列し、シーズの「神楽坂便り」で紹介させて欲しいことを小学校にお願いしたところ、快く承諾して頂きました。
こうして、「津久戸小学校創立100周年記念」の式典が行われる朝、私は、かつて母が通ったこの学校の校門を初めてくぐりました。一歩校舎の中に足を踏み入れると、床も壁も木に包まれ、明るく、ぬくもりを感じ、外からみた古い鉄筋の校舎から想像していたのとは違って、とても心落ち着く空間でした。児童たちの作品が校舎のあちらこちらに大切に飾られ、美しく整備されていることに感心し、こういうところを学び舎(まなびや)として子どもたちが育っていることを嬉しく思いました。
体育館で、子どもたちによる「ぶち合わせ太鼓」が鳴り響き、100周年記念の児童集会が始まりました。
児童集会 「ぶち合わせ太鼓」風景
ここで、私は、初めて子どもたちが歌う津久戸小学校の校歌を聞いたのです。
朝はほのぼの 津久戸の丘に
白い校舎よ そびえたつ
さめよ静かな 大気の中に
明るい希望の 鐘が鳴る歌は流るる 津久戸の丘に
白い校舎よ 楽しいな
まなびの道に 仲良くはげむ
われらの学園 うれしいな緑かがやく 津久戸の丘に
白い校舎よ 日がてらす
遙かな冨士の 姿を胸に
手に手をとって いつまでも
明るくて、すがすがしい校歌だと思いました。そして、「白い校舎」というのが、なぜかとても印象に残りました。
児童集会と、記念式典との間に時間がありましたので、校舎の中を歩いてみました。2階の展示室に、明治から平成までの、津久戸小学校で保管されている写真のアルバムが、自由に閲覧できるようになっていました。
木の温もりを感じる校舎内
私は、真っ先に、母の通っていた昭和18年頃のアルバムのページをめくりました。ちょうど太平洋戦争の真っ只中を小学生として過ごした母たちの世代の写真は、学校で学んでいる様子を写したものはほとんどなく、「学童疎開」のものばかりが目立ちました。
親元を離れ戦火を逃れるため、子どもたちだけで田舎に避難する「学童疎開」。その様子を当時の先生が写真に納め克明に記録されていたようで、一枚、一枚追って見ていくうちに涙が溢れました。
津久戸小学校に早朝集まり、故郷を後に坂を下りて駅へ向かう当時の子どもたちの姿。その胸の内は…。疎開先での、一見元気そうな笑顔の奥に、どれほどの不安やつらい感情を隠していたのだろうと、笑顔が明るければ明るいほど、胸がつまる思いでした。子どもたちに付き添った先生が、疎開先での我が子の元気な姿を親たちに一目見てもらおうと、物資が乏しい中、写真を撮り続け、送った様子が「写真面会に喜ぶ親」という見出しで新聞の記事になったことも記録に残されていました。
また、当時父兄から先生に送られた感謝の手紙を読みながら、学校に子どもの命を託した親と、命を託された先生の気持ちのやりとりに、学校教育の原点を見た思いがしました。
「この焦土と化した故郷の風景が、子どもたちの目にどのように映ったのだろう…」という先生のコメントが添えられた一枚の写真。そこには、戦争が終わり、疎開先から故郷へ戻り、焼け野原と化した町の中をうつむき加減に黙々と列をなして歩く子どもたちの姿が写し出されていました。
疎開先に旅立つ日の朝、背後で子供たちを見守るかのように白く輝いていた校舎は、一部を焼失したものの奇跡的に戦火を逃れ、その日、子どもたちの帰りを出迎えるかのようにそびえ立っていました。その校舎の佇まいは、戦争で打ちひしがれた子どもたちだけでなく、教師や地域の人々の目にも、自分たちの気持ちを励ましてくれているかのように映ったといいます。その思いを歌詞に込めて、昭和22年に津久戸小学校の校歌は新しく作り変えられたのだそうです。
100周年を迎えた津久戸小学校の校舎の外観
10時から、記念式典が始まりました。校長先生は子どもたちに、100年前からの津久戸小学校の歴史を話し、そして、「ぐるっと周りを見回してごらん。きみたちは、こんなにたくさんの人たちに見守られているんだよ。」と、子どもたちに、参列している多くの津久戸小学校の関係者や、地域の人たちを紹介しました。そして、次の世代に自分たちが何を伝えていけるのか、考えていきましょうとお話されました。
そして、「児童よろこびのことば」が始まりました。
「児童よろこびのことば」は、4年生・5年生・6年生が、津久戸小学校の100年の歩みについてひとことひとこと思いを込めて語ったものでした。津久戸小学校の校歌のこの「白い校舎」にまつわる話は、子どもたちに、この学校の忘れてはならない歴史として大切に語り継がれていることがわかりました。参列した大人たちは、みなその話を熱心に聞き入っていました。
そして、校歌が厳かに歌われました。それは、私にとってはその日2回目のものでしたが、児童集会で初めて聞いた印象とは違うものとして心に深く沁み入り、先ほど見たアルバムの写真が次々と思い起こされました。
母は、子ども時代のことについて多くを語りません。母の子ども時代はすなわち戦争の時代で、語ることのできない衝撃的な過去でもあったのだろうと思います。この津久戸小学校で見せていただいた100年の歴史の記録の数々は、今まで私が知らなかった、母の子ども時代の一片を窺い知る記録でもありました。
かつて同じこの場所に、子どもらしく過ごす時期を戦争で奪われた子どもたちがいた歴史を思い、今、私の目の前にいる元気な子どもたちがあの悲惨な戦争を二度と経験することのないよう、平和な世界であることを心から祈ると同時に、そういう社会を築くために、私たち大人に何ができるのかを常に考えていかなければならないと強く思いました。
2004年10月16日は、私にとっては、過去と現在、そして未来が入り交じる、不思議な気分で過ごした一日となりました。
100年後には、津久戸小学校はどんな学校になっているのでしょうか? 学校の前を通るたびに、この地域に関わる一人の市民として、子どもたちの未来について考えていけたらと考える毎日です。
津久戸小学校のホームページのアドレスはこちら。
http://academic2.plala.or.jp/tukudo/
※ 今回シーズで「神楽坂便り」を担当するにあたり、母が津久戸小学校の同窓生であるということで、教頭先生が行事に参加させていただくことを快くご承諾下さいました。この場を借りて、心よりお礼申し上げます。
2004.11.09(て)